昭和40年01月27日 夜の御理解



 心は信心の定規じゃによってと。心は信心の定規じゃによってと。自分の信心が、段々育っていっておる。高められていきよる。少しずつ信心がわかっていきよるということはどういうようなことか。それは自分の信心を、知るというかね、自分の心の中に感じるところの信心の喜び。喜びの度合いというものが、自分の信心をだいたい知ることができます。同時におかげがその信心を表しておるとも言えます。ね。
 信心が育てば、信心の実体というものが大きくなれば、おかげも大きくなっていくということは、これは間違いありません。けれどもこれではね、心は信心の定規。おかげは信心の定規とおっしゃっていない。喜びは信心の定規ともおっしゃってはいない。自分の心の中に喜びが、有り難い有り難いということが信心の、だから定規にはならない。本当の意味においては。
 また自分は誰が何と言うたって、これだけのおかげを頂いておる実証があるじゃないかと。このおかげの実証があるから、自分の信心は間違いないのだというようなことは言えんことはないけれども、これとても、ならその定規というように間違いのないというものではないということ。やはり信心。心が信心の定規だということ。そんならその心は、どういうようなところにその目盛りをいつも置いたらよいかということ。ね。
 今朝から、朝の御祈念に熊谷さんが、ああして毎朝お参りになります。昨日の朝のお届けに「先生、今日はあの親戚の」ひとつ上の方の屋敷が歯医者さんがおられます。そこは昔から親戚なんです。いつも昔からいろいろな因縁があってから、裁判沙汰になったりなんかでその、ま、いうなら親戚同志もめておったお家なんです。熊谷さんが椛目におかげ頂かれるようになって、まあこちらはそれが段々なくなって、むしろそれにお礼ば言われるような状態になっていかれよる。
 そすと同時に、昨日はその上の段と下の段の方がですね、屋敷の測量がある。それで、どうぞ、私の方に、上の方も入り込んできとりゃあ、下の方も入り込んできとる、とこう言う。けれども、小さいことをとやこう言いたいとは思いませんから、どうぞ穏便に解決のおかげ頂きますように、と言うことであった。ところがなんですねえ。穏便におかげ頂きたい、穏便におかげ頂きたいと思いながらもあんまりしたことを言われるものだから、心が少し乱れてくる。
 まず第一に上の段の方の測量が始まった。向こうの歯のお医者さんちゅうのが、四十いくつ位の人らしいのですけれども、境に柿の木やら、びわの木やら植わっておる。随分大きい。私があちらに縁について参りまして四十五年にかなる。その後植えられたのだそうですから、四十年余りになるのが、もう相当大きくなって実りよるわけです。それをですね、向こうの上の段の人が、こりゃ自分方の土地ちゅわれるそうです。
 自分の子供の時ちぎよったちゅう。自分が子供の時植えたちゅう。もうはっきり嘘を言われるそうですたい。「そんなこと、こりゃあなた、私が嫁入ってから、ここへ植えなさったとですよ。それけんああた毎年毎年、柿でもびわでもうちの方からちぎよるでしょうが」「うんそればってんから、あんたげがとっとるばってんから、昔は子供ん時にはこれはうちんとと言うてから私どんがちぎりよったと言われるそうです。
 あなたがそげん言いなさるなら、たったそれだけ私のほうひとつ多くもろうたからちどうでもないけれど、よく考えてもらわなきゃいけんですの、ちゅうことで、まあそれはそれで穏便にこらえることが出来た。そして測量に来て頂いている人達に、お茶でもあげようと思うてですね、お茶の準備をふっとしてる間に、もう下の方の測量がしまえておったちゅうね。これは、もと自分のとこの小作人の方かなんか。
 そして道路側の方ば自分のほうにして、向こうのほうの役に立たん所のほうば、熊谷さんとこにしてしもうとるげな。「こりゃあんた反対にしてもらわにゃできじゃったところなのに」「もう測っとりますけん、仕様ありまっしぇんじゃんの」ちゅうそうですたい。「もう本当に踏んだり、けったりのごとあるごと思えるけん、女所帯ちゃ、こげんも付け込まれんにゃいけんもんじゃろかとこう、やっぱり思うた」と言われる。
 「神様にあれほどに穏便に、穏便にというてお願いさして頂きながら、自分の心も穏便にと願いながら、上の段から摂取され、下の段からまた削られ。そしたらもう私の心が穏やかじゃない」とこう言うのです。それほど言われましたら、私ここでお取次させて頂きましたらね、「それでもね、それでも熊谷の家を中心に神が働いた」とおっしゃるですね。「それでも」とおっしゃる。
 私はこのときに、ほんとに有り難いと思うたですなあ。「それでもね、それでも、神は熊谷の家を中心に神が働いた。」とおっしゃるですね。それでもと仰る。私はこん時にもうほんとう、ありがたいと思うたですな。それでも、神は熊谷の家を中心に働いた、とこう。どうでしょう、皆さん。このことがわかるでしょうか。例え身は削られてもです、下は摂取されてもです。
 それでも神様は「熊谷貞代の家を中心にして働いた」とこうおっしゃっとる。ハア、そうしてみると旧家は旧家だけにです、どのようなめぐりがあっておったじゃ分からん。家はどのような摂取をしておったじゃわからん。削っておったやらわからんということ。大変な昔から物持ちだそうですから、ずいぶん田も畑も、また財産もあったお家なんですもんね、熊谷さんのお宅ちゅうのは。
 ですから、いかに例えば、小作人ですか、貧乏人あたりの、ただ摂取だけをしたかわからんのですもんね、考えてみりゃあ。成程、神様が、たったこのぐらいなことで、めぐりのお取り払いをくださりよるんだな。例えばです、または大難を小難のおかげ下さりよるんだと感じさしてもらやあ、神様は「それでも、熊谷の家を中心に働いた」とおっしゃることがです、「ハアー、神様そうでしたか」と分かったら、もうそれこそ、お礼申し上げる以外なんにもないですね。
 「もう先生、おかげ頂きました。もう昨日から、どうにも穏やかに、穏やかにと思いながら、穏便に穏便にと言いながら、願いながら、私の心が穏便でなく、穏やかでなく、ほんとにおなご所帯ちゃ、ほんとに情けないことだと。おなごだけにと思うてから、その付け込んどるというような気持ちでおった。」とこう言う。そしたら神様は、「それでも」とおっしゃる。)「お前はそう思うとるけれど、それでも神は、熊谷の家を中心に働いた。」とおっしゃる。
 問題はね、「信心は心が信心の定規じゃによって」ということはですね、私どものこの心がです、神様を信じて疑わないどれほどの、どれほどの信じる力を頂いているかということ。例えば摂取されても取られても、いわば災難が起こって参りましてもです、神様の働きに間違いはなしと、こう信じるその心の度合いというものが、信心の定規なのだ。このことは今日はじめて頂いておる御理解なんです。ここのところは。
 皆さん方でもことに当たってですたい、お礼を申し上げねばならないような時に、腹を立ててはおらぬかと。お願いをさして頂いて、右と願って左となった時に、神様の力がないような思い方をしてはおらんかと。願うたが最後、お取次を頂いたが最後、その氏子を中心に神様がお働き下さっておるんだ。それは痛いことであろうが痒いことであろうが、または、損をすることであろうが、可笑しい恥ずかしいことであろうがです。
 神様はその氏子を中心に働いて下さっておるんだと。いわゆる、神様のご都合に間違いなしと信ずる心がです、信心の定規だ。勿論、神様を信じるそういう定規にです、信じる力にです、その力のいわば深さ広さにもちろん心の中に頂くところの喜びも、それにともなうて喜びが頂けるでしょう。勿論、信心の実体がそのように育って参りますならばです、私の心のその信心の実体の通りのおかげがです、かげをやどすようにかげはついてくるでしょうね。おかげ頂かにゃいけません。